介護業界のオピニオンリーダーの方々を見ていると、その歩みに似た傾向があると私は感じています。

介護と全く関係ない仕事をしていて、ひょんなことから介護業界に入ることになった。そこで非常識的な処遇や、非人間的な営みが常識である現実を目の当たりにした。 これって何か変だよね? ということで、当たり前の生活や暮らし、人間的営みができるような介護を実践された。 そして、時代が後追いで彼等の実践を認めるようになってきた。

という傾向です。つまり、旧態的な介護業界に物申し、それをぶっ壊して、今の介護業界の礎を作ったのだと私は考えています。 その結果としてできた一つの形が介護保険制度だと私は考えています。処遇ではなく尊厳ある自立したその人らしい生活を支援すること、それを謳っています。

オピニオンリーダーの方々をはじめ、現場の中堅からトップクラスの方々は、措置から契約の変化を体験し、処遇を壊し、介護という礎を生んだ「生みの親世代」とでも呼べるかもしれません。 彼等には壊すものと、創造する理想があったのです。

さて、それでは私自身はどんな世代なのかと考えます。

私は、諸先輩方が築いた理想を目指し、その理念や知識、技術、方法論、制度を学校で教育された世代です。尊厳、自立、その人らしさ、生活を謳う介護保険制度成立後に業界へ飛び込んだ世代です。 こんな私のような世代を「育てられた子供世代」とでも呼びましょうか。主に専門学校や大学の介護学科、介護福祉士コース等を卒業した10~20代です。

私の偏った意見かもしれませんが、介護業界において、今まさにこの“育てられた子供世代”に元気がありません。仕事へのやりがいや意欲、自信を持てていないともいえます。

何故でしょうか?

私はその原因は「学校で教えられたその理想と呼ばれる本当の介護に出会えていないこと」が大きいと考えています。

子供世代に「介護とは何か?」と問うと先の尊厳、自立、その人らしさ、生活などの答えが返ってきます。しかし、それがいったいどういうものかということは答えられないのです。私がそうであったように。。。

*理想、理念、想いは出てくるのです。しかし、それは子供世代の人自身の言葉ではなく、親世代が築いてくれたもの、教育されたことの暗唱でしかないのです。 この業界では時に言葉は陳腐になります。今ある言葉は、親世代が自ら考え、おかしいと気づき、実践を重ねて生み出したものです。 *

そう、私たち子供世代に最も足りないこと。

それは「その理想の言葉を自ら体験し、そこから感じたこと、それこそが介護だ!と親世代と分かち合う機会」だと私は感じるのです。

さらに言うと、私はそれがあったからこそ「これが介護なんだ」と信じることができ、経営や管理ではなく、介護という職そのものに魅力とやり甲斐を見出すことができるようになったのです。

私は新卒で民間の介護企業に勤めました。そこでは旧体質な介護業界に風穴を開けて、利用者をサービスの選択主体として尊重する精神と事業運営に対する企業努力がありました。 現在の介護の一般化、普及は民活導入の意義が大きいと私は考えています。しかし、私は企業では介護を学ぶことは出来ませんでした。 1年目にして事業所の管理者になり、現場未経験なのに現場経験豊富なスタッフを指導する立場です。介護そのものを学ぶというよりも、マネジメントや運営に携わることが多かったのです。 それが良い悪いという話ではなく、私には一介護職として『これが介護なんだ!』という体験と、それを『そうだよ』と分かち合ってくださる“介護の”スーパーバイザーに出会う機会が無かったのです。

そんな私は現在の職場である利用者と出会いました。

60代男性で独居。要介護2。天涯孤独の生活保護受給者で、パーキンソン病を患っていました。 民生委員に発見された時は文字通り生き倒れ状態でした。そんな彼は生きる意味も目的も失い、死も恐れない虚無の中にいました。 彼がデイサービスを利用してから、他者と関わり、自分の存在が歓迎され、一人の人として尊重される体験を重ねることで自尊心を回復していきました。しかし、ひょんなことから入院。1週間でじょくそうができ、オムツにされ、カテーテルを挿入され、拘束され、寝たきりになりました。幻覚が現れてしまい、精神病院へ転院させられることが決まりました。

そんな彼と最後の別れをしに見舞いに行った時、彼は満足に会話をすることもできませんでした。空を彷徨う彼の手を握り、必死に呼びかけると、眼球だけ動いて私を見つけました。

「また戻りてぇ。みんなに会いてぇよぉ・・」

そう言って彼はひたすらポロポロと涙をこぼしました。私は無力でした。そして彼の手を握り共に涙を流すことしかできませんでした。利用者に対して初めて流した涙でした。 その彼との関わりを上司と振り返り『ただ共に在ること、寄り添うことから介護が始まり、介護が終わる。この体験が私が介護を仕事として行う全ての根本にある』と分かち合うことができました。

現在の現場は、理想や理念を追及していて、学校で学んだスキルはそれを達成するためのツールであるはずです。

しかし、そのスキルや方法論が上手くできること、業務がしっかりできることがいつの間にか目的化し、何故(理想、理念のために)スキルを使うのかが置き去りにされているのです。

その逆転してしまった一番大切な目的を自覚できるのが、利用者との生々しい関わりと、それを親世代と分かち合う機会だと私は強く思うのです。

私はこの経験を生かし、後進の教育はこのことを学んでいただけるように心がけています。

一週間来ていた子供世代の実習生はこのように話してました。

「Aさんの死にたいという言葉の前に私は何もできませんでした。無力でした。でもここで、ただただその人の隣でその人の想いに触れることを学びました。」 「実習半ばに、学校の友達と電話して、トランスやオムツ交換をやらせてもらってる話を聞いて正直うらやましかったです。私も学校で習ったことを試してみたかった。」 「でも、ここではスキルより前に介護で一番大事なことを教えてもらった気がします。何かをしてあげることだけが介護だと思ってました。でも、利用者さんの真のニーズってどうにかして叶えられるものばかりではないんですよね」 「利用者さんの想いがある、それが一番最初にあって、だからそのために技術があるんですね。理想は遠いし、正解はないかもしれない。だけど、だからこそそこに向かおうとし続けることが大前提なんですね。」

子供世代は学校で学べる機会を得ました。知識技術を身に付け、理想と理念を目指すことを教えられて現場に出ました。 これって変だよね?という厳しい現実と向き合いながら歩んできた親世代より、待遇が恵まれています。

しかし、なまじ教育されただけの子供世代は、理想と現実のギャップにぶち当たり、理想や理念を体験しないまま、業務をこなす現場に巻かれていく中で、自分の存在価値や介護の仕事のやり甲斐や魅力を見失っていくのではないかと思います。

理想や理念、そういう概念的な物って、机上で知ることはできても、“わかる”ことって現場での体験を通じていくしかないじゃないですか。

子供世代がきらきら輝くために、親世代が本当に創りたかった真の介護を実現するために、スキルと業務の前に、現場での利用者との生々しい関わりの体験を分かち合いませんか?

“教育”とは業務を“教える”だけではなく、一緒に悩み、苦しみ、色々な物を親子世代で分かち合いながら“育てる”ことです。そして“育てる”のは、利用者さんとのかかわりの中から子供世代が感じたことを引き出すことから始まるのではないでしょうか。

※本稿は、金山峰之さんからの寄稿記事です。2010年9月4日に、ご自身のブログ「介護の専門性新提案」において掲載した内容を、一部編集のうえ掲載しています。