前回の記事の続きです。

人は元来、相手を想い、関わろうとする生き物なのでしょう。

どこかで読んだのですが、キリスト教もユダヤ教もイスラム教も仏教も全て究極的には言っていること、真理は一つだそうです。

『隣人を自分のように愛しなさい』

日本人は民族的に馴染みが少ないですが、宗教が世界的、歴史的に人類に広がっていることは、それぞれの教理が人の真理や真髄を言い表している哲学だからだと思います。だからこそ、結局は言ってることの根本は同じなのです。違うのは祈る対象が神かアッラーフか仏かヤハウェかということ、その他です。

まぁ宗教に関しては置いておきますが、Tさんを通じて、人は本来この本質を身につけているのだと感じました。

仏頂面で座って動かない男性利用者でも、他の認知症の方が繰り返すご家族の悲しい話を聞いていると、「ご苦労なさったね」とただ一緒に泣いています。

人は本来、社会福祉援助技術とか言われる“傾聴”とか“共感”とか“承認”とかそんなものを自然にできる生き物なんです。

特に利用者さんや高齢者だからというわけではないと思います。何かを失ったり、多くの経験をしている人ほどその“人”本来の本質を自然に発揮できるようです。

むしろそれを意識的に技術としてやらなければならない私たち介護職の方が不自然かも知れません。本質ではなく何か目先の技術や知識で課題解決に走ってしまう気がします。

介護は技術知識よりも、人柄とか性格、気質が大事。向き不向きがあるという意見もよく聞きます。だから性格が介護に向いてなければきついと。

それは正しいかもしれません。職業に向き不向きはあるかもしれません。 しかし、究極的には介護は人が本来持っている人としての自然な“らしさ”=『他者を自分のことのように感じて何とかしてあげよう』という本質が発揮されたらよいのかもしれません。

現役世代はこの“何とかしてあげよう”が物理的、現実的課題解決に向かってしまうかもしれませんが、本来の本質を発揮している利用者さんたちは“何とかしてあげよう”ではなく『今自分にできる最善の手段』を自然にやっているのですね。

Tさんにしろ、寡黙な男性利用者にしろ、人としての本質を最大限発揮して、自然に今できる最善のことで相手に寄り添おうとしているのです。

そして、他のどんな物理的、現実的課題解決よりも、そういうTさんたちの支援の方が人は救われるのだと体験しました。

私に感謝を述べてくれた以前の会社のお客様たちも、私の支援という行為ではなく、私が無意識に発揮していた人としての本質的支援に感謝していたのかもしれません。

人の本質から発揮される支援。これは人であれば誰しもが必ず持っているものです。これを発揮しながら、それを最大限に発揮させるために知識や技術を身につけていきたいですね。

※本稿は、金山峰之さんからの寄稿記事です。2009年2月26日に、ご自身のブログ「介護の専門性新提案」において、掲載した内容を一部編集の上、掲載しています。