今日は某研修の一環で実習生として認知症対応型共同生活介護(グループホーム:以下GH)で一日過ごさせて頂いた。

介護実習ではない為、基本的には利用者さんから離れてじっと、利用者さんやスタッフや出入りするご家族や地域の人を観察するというなんとも不思議な体験。以前、認知症介護リーダー研修の時も、何もせずに一日過ごすという体験実習を行ったことを書いた。(※こちらについてはまた別途記事にいたします)

その時とは異なり、利用者さんの体験ではなく、あくまでもGHで行われている様々な出来事を観察する見学者だ。GHで利用者さんやスタッフの動きを観察し始めたのが10時頃。そして、12時頃まで特に何も行われなかった。テレビを見たり、おしゃべりをしたり、お茶を飲んだり、散歩に行く人、通院から帰ってくる人、花札をする人など様々だ。

12時過ぎに、ようやく昼食をどうするかという会話が生まれ、一人はそうめんと赤飯を希望し、残りの方はかつ丼を希望された。スタッフの方が2名の利用者さんを伴って買い出しへ。オリジン弁当やスーパーで買い物。ゆっくりのんびり歩きながら、休憩しながら買い物。GHに戻ると40分が経過。12時45分からようやく昼食の準備が始まった。

スタッフ、利用者さんが入り乱れて色々と調理活動に携わっていた。一緒に買い出しに出かけたお1人はすでに赤飯のおにぎりを食べ終わっていたのでぼーっと眺めていた。そして、昼食が始まったのは13時30分過ぎからだった。食べ終わった方から各々皿を洗い、ソファでうたた寝する人、ワイドショーを見る人、居室へ戻っていく人様々だ。この何とも言えない、だらだらした様子。

ちなみに、昼食はいつも時間がバラバラであり、前後1時間ずつの幅で食べているとのこと。ルールは必ず外へ買い出しに行くことだけ。ふと私は気づいた。運営基準などに表記されている「家庭的な環境」とはまさにこれではないか?と。

そしてこれこそが“生活”なのではないか?と。

ちょうど私はこの実習の前日が休日だった。それを振り返ってみた。朝娘が起きて、おむつを替えて、朝ごはんの支度をして、食べさせて、録画しておいたアニメを娘に見せて、そしてお茶をこぼした服と一緒に自分の服も洗濯して、干して、その間に、娘と一緒にアニメを見て、洗濯物をたたんで、着替えて、娘のおむつを替えて、娘がCMでやっていた最新の映画が見たいと言ったので、二人で自転車でTSUTAYAへ行ってDVDを借りて、途中で娘が公園で遊びたい、と言うので原っぱ公園へ行って、ボールを投げたり追いかけっこをして遊び、30分くらい遊んだらお腹空いたというので、マルエツへ行って、たらこと牛乳を買って、パン屋さんで菓子パンを買って、帰ってからDVDをつけながら、今度はオムライスが食べたいというのでオムライスを作り、たらこスパゲッティを作り、一緒にDVDを見てたら、飽きたというので、ゴロゴロするゲームをして遊び、そして今度はWiiで遊びたいと娘が言うので、Wiiをしてたっぷりゲームをしたら夕方になったので、夕飯の支度をしたけれど、菓子パンがお腹にたまっていたので、あまりお腹が空いておらず、夕飯は食べずに、DVDを返しに行って、帰宅して風呂を掃除して娘と一緒に入って、歯磨きして、紙を乾かして、寝た。。。

私の生活はだらだらしていた。言葉を変えると、その時々の事象(娘のニーズと家事)に応じて選択を重ねて、それでも自分のペースを保ちつつ過ごしていたのだ。つまり、生活とは「タイムスケジュール(時間管理)からの解放」と「自由な選択」の積み重ねであるということが分かった。

また、この“生活”が展開されている場こそ“家庭的な環境”なのではないかと感じたのだ。

その2に続きます。

※本稿は、金山峰之さんからの寄稿記事です。2016年11月4日に、ご自身のブログ「介護の専門性新提案」において、掲載した内容を一部編集の上、掲載しています。

※ 金山峰之さんのプロフィール 介護福祉士、社会福祉士、介護支援専門員。法政大学大学院政策創造研究科修士課程修了。 在宅介護を中心に15年以上現場に従事。現在フリーの介護福祉士として、高齢、障害者介護現場の傍ら、介護人材の育成、講演、研究、コンサルティング等に従事。