日本標準職業分類における、介護サービス職業従事者には訪問介護従事者と介護職が分類されているというお話をしました。これはつまり、訪問介護に従事するいわゆる(以下)ヘルパーと、ヘルパー以外の介護関係従事者全部、というざっくりした分け方です。介護の仕事に従事する人は全員「介護職」でも良いはずなのに、わざわざヘルパーだけ分けているというのは何故なのでしょう。

それは、ヘルパーという職業の成り立ちが、他の介護職とはちょっと違う背景からきているということがあるかもしれません。今日はその背景をざっと概観してみましょう。まずは、前提となる日本の当時の歴史や背景を整理してみます。

まず、戦後の日本の福祉の発展について見てみましょう。

戦後にできた福祉に関する法律は3つで、福祉三法と呼ばれます。それぞれ、児童福祉法(1947年)、身体障害者福祉法(1949年)、生活保護法(1950年)の3つです。1945年の終戦から5年以内に作られたものですね。

何故この3つが出来たと思いますか?それは、この3つで支えるべき人たちが日本にたくさん増えたからです。つまり、戦争で親を亡くした子供たち=戦災孤児、戦争で傷ついて手や足を失った軍人さんたち=傷痍軍人、そして戦争によって貧困に陥った人たちです。こうした人たちをそれぞれの福祉法で支えたのです。だから、障害は身体障害者に限定した福祉法だったのですね。

そして、1950年には朝鮮戦争が起きました。日本は皮肉なことに、すぐお隣で起きた戦争の特需で復興したのですね。景気が良くなったわけです。そして、1956年には経済企画庁の経済白書で書かれた「もはや戦後ではない」という言葉が流行語になり、日本の戦後復興は終了したと象徴されたのですね。

もはや戦後ではないと言われ、日本の経済や社会が安定し始めた頃、新たに3つの福祉に関する法律ができました。それが知的障害者福祉法(※当時は精神薄弱者福祉法という名称)(1960年)、老人福祉法(1963年)、母子及び父子並びに寡婦福祉法(1964年)です。

少し話がそれましたが、戦後約20年弱経ってからようやく老人福祉法ができたのですね。つまり、それまで老人は家族で面倒をみるものだ、というのが当たり前の風潮から、国の政策として老人の福祉を保障していきますということになったのです。

実はホームヘルプ事業自体は長野県内市町村で1956年に開始された「家庭養護婦派遣事業」が始まりだと言われています。その後、老齢世帯や病人宅へ訪問事業を行う独自の取り組みが各自治体で展開されていきました。ここで派遣されていた方というのが日本の元祖ヘルパーたちなのですが、一説によると、そのヘルパーたち自身は夫に先立たれて、生活が苦しかった女性であり、そうした方々の救済の意味で、老人や病人のお宅へ派遣していたという一面もあったようです。つまり、ヘルパーを派遣するということ自体が、彼女たちに対しての貧困対策だったということです。まだまだ女性が独り身で生計を立てるということは難しい時代だったのかもしれませんね。

こうした流れの後、先ほどご紹介した1963年の老人福祉法において各地で独自に行われていた事業が「老人家庭奉仕員派遣事業」として制度化され、在宅介護を担う、現在の訪問介護(ホームヘルプ)事業が正式に国の制度としてスタートしたのです。

今でも超ベテランで、ある程度の年齢の訪問介護員の中には「私、家庭奉仕員時代からヘルパーやってますよ」という方が稀にいらっしゃいます。当時は準公務員的な扱いで、お給料や待遇もしっかりしており、更には今でいう超複雑ケースばかりが訪問先だったそうです。医師や看護師とも連携をしており、必然的に専門性も磨かれていました。今でいうところの、訪問介護をする主任ケアマネジャー的な人たちだった印象です。

次回は、老人福祉法で制度化された家庭奉仕員たちがどのように、今の訪問介護従事者になっていったのかについてみていきたいと思います。