延命するか、しないか。

この仕事に就いてから、何度この岐路に立つ方々の選択に立ち会わせて頂いたでしょうか。 どちらの選択も、選択をした先の異なる未来もたくさん見てきました。想像以上の喜びに変わった方も、想定外の後悔に変わった方も、、、

『自己決定』

私たち介護福祉、福祉職に携わる者にとっては永遠に変わることのない普遍的原則です。

しかし、何が本当の自己決定でしょうか。 本人の意志はどこから人の影響を受け、どこからが本当の自分の意志なのでしょうか。

「ケースワークの原則」でバイスティックは自己決定について、選択肢のメリット、デメリットを示したり、様々な選択肢を用意すること、そして自己決定を促し尊重することを原則として説いています。

先人の教えに倣い、私はそのようにしてみましたが、それは本当に正しかったのか。モヤモヤします。 本人にとって選択肢が広がることは必ずしも幸せなこととは限りません。かえって選べるからこそ苦しむことになってしまうことがあります。 私は本当に本人主体の援助をしたのでしょうか。家族の側に立っていたのではないでしょうか。 今も時々思い出す利用者さんがいます。

Kさんは90代後半の男性。奥様に先立たれて以降、近県に住んでいた独身の一人娘さんと同居。親一人子一人の生活でした。 自宅内をつたい歩きしていた際、転倒し大腿骨頸部骨折、その後敗血症になり、入院している間に脳梗塞を併発。もともと機能低下傾向にあった嚥下状態が悪化。 経口摂取の可能性を模索したが誤嚥を繰り返し、その間廃用症候群が進み、経口摂取は不可能という医療の判断が下されました。

入院前からKさんは 「もうすぐ100にたるまで生きたんだし、娘に迷惑はかけたくない。やりたいことはやってきたし、早くかあさん(妻)のところへ行きたい」と言ってました。

主治医は娘さんに胃瘻を勧めました。 経口摂取が難しく、年齢的にも体力的にもこのまま退院することは死期を迎える準備に入りますよ、と。

何度も見聞きしてきたこの展開。

娘さんは、「父も母のところへ行きたいでしょうし、管をつけて生きたくないといつも申してました」そのようにご本人の意志を尊重されました。

ご本人にとっても、家族にとっても、生き方の選択肢が増えた時代になりまし。

インターネットを開けば胃瘻造設に伴うQOL向上に関する良い情報に簡単にアクセスできます。 娘さんの意志は揺れ動きます。

「金山さん、たくさんご相談に乗って頂きましたけど、やっぱり私は胃瘻にした方が良いと思うんです」

調べたたくさんの可能性のお話を娘さんはひたすらされていました。

私は「お父さんには胃瘻を作ってほしいと伝えたんですか?」

「いえ、、以前から延命は望んでませんでしたし、先日も話の流れから延命して苦しんだ母の話をしだして、自分はかあさんみたいな最期はいやだ、自然のままがいいって、申してました。それに医師からの説明に対してもNoと言ってました。でもメリット、デメリットをちゃんと理解しているかどうか、、、」

私「私がお父様に選択肢とその先の未来の可能性についてお伝えして、答えを伺うことは難しくないと思います。そしてきっとKさんだから答えはNoでしょうね」

「そうですね。きっと嫌だと言いますね。年齢的にも劇的な回復はないでしょうし、父も望んでいません。。。でも、金山さん、私は、わたしは父に生きてほしい。。。少しでもいいから」

、、、、

私「お父様に、その想いを伝えるべきではないかと私は思います。お父様の意志の中には、残される娘さんの想いを含めての選択肢は今はないはずです。ご本人にとってはもう生きる意味はないかもしれない。でも、残される家族の為に少しでも生きる、という選択をされるかもしれません。想いを伝えないままでいることはお父様にもご家族様にとっても不幸なことではないでしょうか。お父様と対話をしてはどうですか。私も自分の親にこんな話が出来るかと聞かれたら戸惑います。でも、だからこそ、私のような第三者がお役に立てると思います」

そして、私と娘さんはKさんの病室へ行きました。

お見舞いに来たと言う私にKさんは嬉しそうに微笑んで下さいました。 外は夏至の頃。「今日も外は暑いですか?病院だと季節も分からなくて。いやになっちゃいますよ。」Kさんは大きなため息をつきました。

当たり障りない挨拶をした後、私は本題へ。 胃瘻のイの字を発した途端、Kさんの表情は曇り、眉間にシワを寄せ「金山さん、何しに来たんですか?」と声がこわばりました。

私は続けました。Kさんの客観的状態、示されている選択肢、残される可能性とリスク。

「やめて下さい。聞きたくない。穴は開けません」

Kさんは予想通り頑なでした。

「お気持ちは存じてます。だから今日は別のお話をしにきました。Kさんのご意志は十分わかっています。でも、一人残される娘さんの気持ちをKさんはご存知ですか。親子で話をされてきましたか。娘さんはKさんにお話があるそうですよ」

それから、娘さんは堪えきれず涙を流しながらKさんに想いを伝えていました。

Kさんは全く表情を変えず、ただ天井の一点を見つめて娘さんの想いを聴いていました。

私「Kさん、娘さんのお気持ちを聴いて何を思いますか?」

、、、

、、、

「わかるよ。親だから。」

、、、

「娘さんの気持ちがわかるということですか?」

コクリと頷きました。

私「わかった上で改めて伺います。胃瘻を作りますか?作りませんか」

、、、、

「すぐには、、、決められない」 「今日は疲れた」

意志を近いうちにはちゃんと決める、という言葉を聴いて私は退室しました。

これ以上はもういい、という明確な意志から、“決められない”葛藤状態にKさんは置かれました。

自己選択をしなければならない、という選択肢が広がったことによる苦悩の中に私は彼を追いやりました。

帰社し、上司に報告をしている中で私はなんとも言えない一種の後悔、罪悪感、そして不安に襲われました。

自分がしたことは正しかったのか、いや、正しさなんてあるのか。ご家族側の想いに引っ張られて、本人の意志を尊重していなかったのではないか。

そして、病に倒れて死線を彷徨った実家の父を思い出し、私は熱いものが込み上げてきました。

「親に生きてほしい」

子供としてのこの想いに引っ張られたのではないか。真に利用者本人主体の援助だったのか?と自問自答を繰り返しました。

私たちは「本人の自己決定」に最大の価値を置きます。 しかし、本当の自己決定とは、バイスティクが言うように、しっかりと選択肢を示すことを大前提として、本当の決定が行われるものだとすると、私は、ご本人が延命を望んでいないという表面的な意思決定を尊重することで、ご本人が葛藤することに伴走することから逃げていたのかもしれません。その方が私も楽だから。

しかし、ご本人の葛藤のその先にこそ本当のご本人の自己選択・自己決定があると今は信じられるようになりました。

結果Kさんは最終的な自己決定をされました。 バイスティクは自己決定が例え援助者から見ても周囲の人から見ても悲観的な選択だったとしても、その自己決定を尊重せよと説いてます。

だから私は葛藤の先に彼が選んだ自己決定を最期まで尊重しました。

度重なる現場体験が、私を一人の対人援助職として育てて下さったご本人とご家族のことを思い出させてくれました。

※本稿は、金山峰之さんからの寄稿記事です。2016年12月29日に、ご自身のブログ「介護の専門性新提案」において掲載した内容を、一部編集のうえ掲載しています