前回の記事「人にされて嫌なことは本当にしてはいけないのか?その1」の続きになります。

自己覚知の例です。

知人のAケアマネは利用者さんの家族が介護に非協力的なことに憤っていました。Aケアマネは平凡な家庭で幸せに育ってきました。

Bケアマネは自身が児童虐待を受けて育った方です。家庭とは帰りづらい場所であり、親は自分を叩く存在でした。

Bケアマネは、Aケアマネに「Aさんは自分が持つ家庭・親子像を通して利用者さん世帯を見ていますよね。あなたが育った環境があなたの価値観をつくり、その価値観であなたは利用者の家族をジャッジしているのですよ」と。

それに気づいてからAケアマネの利用者さん家族に対する援助方針は変わりました。

このように、私たち援助者も人ですから、多様な価値観が形成されており、それを元に利用者さんを見てしまうことは仕方のないことです。

特に日本はまだ多くが日本文化で育ち、ある程度の国民性のような価値観を共有している面があります。

しかし、ソーシャルワークの本場である欧米では、多民族であり、宗教の違いや文化の違いが日本よりも強いです。

ですから、自分の価値観を超えた方が援助対象者である場合が多いのです。そうした時に自分の価値基準で相手を見てしまうことは援助において致命的です。

だからこそ、私たちは『自分がされて嫌なこと』や『自分がされて嬉しいこと』という自分の価値観や判断基準で援助をすべきではないと私は考えています。

介護福祉の専門職であるならば、全てのものをフラットに見ることが大事で、見る主体である自分自身すらフラットに見られることが目指すべきものでしょう。

あと、付け加えるならば、専門職としての教育を受けているということも実はフラットに見なければならないのが現場ではないかと考えます。

学校では王道な価値観や判断基準も現場では違う場合もありますよね

そして、私もまた、自己覚知や、自分の価値観で相手を見てはいけないという、教育を自分の価値判断基準においているということも俯瞰してみなければいけないということですね。

何が真に利用者さんのための介護福祉なのかを問い続け、悩み考え続けなければならず、それをやめた時に、固定化された価値観で相手をみることが始まるということですね。

難しそうですけど、実は単純なことです。目の前に答えがいらっしゃる、ということを冒頭のクリスティーンさんが教えてくださっているのですから。

※本稿は、金山峰之さんからの寄稿記事です。

2017年4月27日に、ご自身のブログ「介護の専門性新提案」において、掲載した内容を一部編集の上、掲載しています。

※ 金山峰之さんのプロフィール 介護福祉士、社会福祉士、介護支援専門員。法政大学大学院政策創造研究科修士課程修了。 在宅介護を中心に15年以上現場に従事。現在フリーの介護福祉士として、高齢、障害者介護現場の傍ら、介護人材の育成、講演、研究、コンサルティング等に従事。