前回の記事では、訪問介護従事者(以下ヘルパー)が老人福祉法で老人家庭奉仕員として制度化されたということ、そもそもは、戦後の復興の中で、戦争寡婦などの貧困女性を救済する側面もあったということに触れました。

今回の記事では、家庭奉仕員時代から介護保険制度以降のヘルパーの歩みについてみていきたいと思います。

老人家庭奉仕員が制度化された1960年代後半には70歳以上の寝たきり老人の増大に注目が集まっていました。当時は今のような介護が十分浸透していなかったので、本人の自立を促したり、役割を持ってもらったり、地域で過ごすという、今では当たり前の発想もまだ一般的ではありませんでした。老人は“寝かされきり”になって、廃用症候群(生活不活発病)が進んだため、寝たきり老人が全国で増えてしまったのです。

そこで1969年以降、家庭奉仕員の増員が図られ、在宅福祉施策が本格化されていきました。とは言っても、まだまだ家庭奉仕員が対象とするのは、役所が認めた一部の身寄りがいなかったり、困窮した世帯の老人でした。(中所得、高所得層の負担が高くなるため使いにくい制度だったこともあります)

1980年代に入ると、日本の高齢化が進んでいくことが懸念され、「このままだと日本は老人大国になるぞ」ということから、『高齢者保健福祉推進10カ年戦略(ゴールドプラン)』というものが策定されました。その後『新ゴールドプラン』や『ゴールドプラン21』という政策ができました。

こうした動きの意図を一言でまとめてしまうと「高齢者が増えるので、施設などのハードを増やして、働く介護職やヘルパーを目標を決めて計画的に増やしていきましょう」という政策です。

こうした流れを受けて、2000年に介護保険制度がスタートしました。

介護保険制度はご存知の通り、40歳以上の条件を満たす国民から保険料を徴収するという仕組みです。国民にとっては新たな税金みたいなものです。ですから、全国どこにいても、介護が必要になったら介護サービスが使える状態でないと国民は納得しません。

そのため、国は介護保険制度に合わせて「高齢者ビジネス」への民間企業の誘致政策を進めました。当時は「介護」というよりも「高齢者」という呼び方が一般的でした。今でいうところの「AI」や「環境」みたいに「これからこの業界がくるぞ!」と言ったような盛り上がりがありました。

こうして、介護サービスの担い手を増やすために、それまで行政や社会福祉法人など、一部の限られた法人だけにその運営が任されてきた介護事業にたくさんの民間企業が参入してきたのです。

そうすると困るのが担い手である介護職やヘルパーの養成です。当時の政策では民間企業を誘致する他に、たくさんの主婦層に「主婦業の延長で、高齢者のお世話をするヘルパーというお仕事がこれからの時代きますよ!」ということが全国で言われ、多くの主婦層が訪問介護員2級(ホームヘルパー2級、現在の介護職員初任者研修)をこぞって受講し、たくさんのヘルパーが養成されました。

ちなみに、この時養成された大量のヘルパーたちが、今現在の超ベテランと呼ばれる50代〜60代のヘルパーたちです。この方々がそろそろ引退を控えているというのが訪問介護の崩壊と揶揄されるものですね。

今回は、介護保険制度が始まる前後の“高齢者バブル”と呼ばれる頃のヘルパーの歴史について見てみました。次回はこの続きになります。