世界中で認知症当事者として活動されているクリスティーン・ブライデンさんが日本にいらっしゃっているという話題を見て、数年前に本で読んだ懐かしいエピソードを思い出しました。

確か彼女の著書のどちらかに書いてあったかと思うのですが。失念したので引用は書けませんが、たしかこんな内容でした。

クリスティーンさんは、陽のあたるテラスかどこかで、とても気持ちよさそうに過ごされていたそうです。

優しい日差しに包まれて幸せな気持ちでウトウトしていたところへ、優しそうな人が微笑みながら声をかけてきてくれたそうです。

そして、クリスティーンさんは、その人の言われるがままお散歩へ連れて行かれたそうです。

その幸せな気持ちでいられる空間と時間に居たいという想いは、うまく言えなかった。

優しそうなその人には申し訳ないのだけれど、とても残念な気持ちになったと・・・

これを読んだ時の私はデイサービスに勤めていました。まだ介護経験も浅かったのですが、ハッとしたことを覚えています。

私は何か利用者さんに働きかけるとき、相手のその時の状況やお気持ちを想像したり、推察したり、慮っていただろうか?クリスティーンさんが残念な気持ちになったようなことを利用者さんにしていないだろうか?と振り返ったのです。

当然、相手のお気持ちや状況を想像したりしていたつもりですが、その想像の価値判断基準が自分基軸であることに気づいたのです。

なぜなら、当時の私を育ててくださった多くの諸先輩方や上司が『自分がされて嫌なことは利用者さんにしてはいけない』『自分がされて嬉しいことなら相手も嬉しいものでしょ』『当たり前のことでしょ』と自分基軸で利用者さんのことを考えることをやんわりすり込んで教えてくださったからです。

例えば、レクリエーション活動に参加していない方を見たら『他の方の輪にはいれずにさみしいのではないか?』とか

天気が良いし、桜も咲いているからお花見のお誘いをしたほうが喜んでくださるに違いないとか。

戦時中を乗り越えてきた世代の方々だからモノを大事にするのだろうな、とか。

つまり私たち介護職は、一般的には『自分がされて嫌なことはしない』とか『自分がされて嬉しいことを相手にもする』というような一見正しい価値基準で援助をしていないか?ということに疑問を持たなければならないと私は考えます。

本来的には、利用者である本人の価値基準や状況、想いを、多様な情報(生育歴、職業歴、既往・現病歴、今置かれている環境その他)や知見(人間心理、生理、薬の知識etc)から推察(アセスメント)して、より適切だと判断できる打率の高い働きかけをしなければいけないはずです。

さらにもう一歩踏み込むと、そうした専門職としてのアセスメントの前に自分自身の固定化された価値観や判断基準自体を俯瞰してみる『自己覚知』が必要なのです。

自己覚知は乱暴に行ってしまうと自分の価値観等がどのように形成されたかを振り返る自己分析であり、その分析した自分の価値観に気づき、それを脇に置いて相手の価値観等をフラットに受容するためのソーシャルワークの援助技法の一つです。

その2に続きます。

※本稿は、金山峰之さんからの寄稿記事です。

2017年4月27日に、ご自身のブログ「介護の専門性新提案」において、掲載した内容を一部編集の上、掲載しています。

※ 金山峰之さんのプロフィール 介護福祉士、社会福祉士、介護支援専門員。法政大学大学院政策創造研究科修士課程修了。 在宅介護を中心に15年以上現場に従事。現在フリーの介護福祉士として、高齢、障害者介護現場の傍ら、介護人材の育成、講演、研究、コンサルティング等に従事。