最近よく高齢者への看取りケアという言葉を聞きます。看取りに特化した本等も多数出ているのも知っています。でも、私はそこに、一部ですが、違和感を抱いています。

看取りになったから、特別なケアをする、という感覚が分かりません。 よく、看取りになった瞬間から、急に好きな食べ物や飲み物を出したり、ベッドサイドで好きな音楽をかけ始めたりする所がありますが、看取りの段階になる前からしてあげて!と思うのです。 この、看取りになったら好きな事をしてOKにするというやり方については、望ましくないです。 なぜなら、看取りとは、だんだんご飯が食べられなくなって、飲み物も飲めなくなって、そして自然なかたちで亡くなっていく事を前提としていますが、高齢者なので、その過程を辿らずに急に亡くなる事もあります。 そうなると看取りの過程がないので、好きな事をしてOKの時期は来ない事になってしまうからです。

介護事業所をしていれば、そういう急なお別れは皆経験をします。だからこそ、私は看取りはあくまで亡くなる時期が近づいている事が分かっている、という事であって、好きな事をしてOK等、その人らしい生活をしてもらえるように支える事は、出会った時からしていかないといけない、と考えています。

これは、駒場苑の方針である、7ゼロの方向性で関わる事に繋がっています。

ー出来るだけ、すっきりトイレで排泄をして、お尻が蒸れて不快にならないように綿パンツにパッドにして、普通の入り慣れたお風呂で好みの温度や時間で入浴して、むせたり、詰まったりしない姿勢と介助で食事をして、その食事も好きな食べ物や飲み物が尊重されて、眠いのに無理矢理起こされず、行動を制限されたり、委縮するような言葉かけもされずに、空いた時間に好きな事をしたり、好きな音楽を聴いたり、外に出たりして過ごす。その結果としてその人らしい生活に近づいていくー。

こういう生活の延長線に、看取りだったり、急な死を迎える事があります。だからこそ、看取りになってからケアを変えるような事にならないように、日頃から、その人らしい生活を支えていきたい、と思います。

ただ、そろそろ看取りの時期ですね、となった時にだけやれる事が1つだけあります。 それは、看取りという、亡くなる事が近づいているという事が分かっている時期だからこそ、それをオープンにして、家族との時間を増やしたり、一緒に暮らしている他の利用者に顔を出してもらったり、手を握ってもらったりする事です。

家族はもちろんですが、他の利用者にまでにそういう状況である事は言わない所は多いです。 家族の希望でひっそりしたいのなら、それでも良いとは思いますが、私の経験上、そこまで秘密にしたがるケースは少ないと考えます。 オープンにすると、やはり同じ場所で生活を暮らしている仲間として、顔を出してくれる人もあらわれる。 そういう風に皆に見守られながら亡くなるという事は、看取りだからこそ唯一出来る事ではないでしょうか。

私の関わる施設では、基本的にオープンにして、亡くなった後も、最後に1階でお別れ会をします。そのお別れ会には、他の利用者や他の利用者の家族も参加出来ます。職員もその日出勤している職員や有志で集まった職員も出来るだけ参加出来るようにしています。そして最後は皆で手を合わせ、正面玄関から皆で送り出します。

これをしている事で、ある利用者に言われた事があります。

「前はいつの間にか同じ部屋の人がいなくなって、ベッドが空いて、職員さんに聞いても入院した、としか教えてくれない。しばらくして、そのベッドに新しい人が入って来る。そこで私はあ、あの人は亡くなったんだな。って気づく。なんだか寂しいし、私もどうなっちゃうんだろうって怖くなっていた。だけど、今は亡くなるまでここにいれた人達の穏やかに亡くなる姿を見て、私もこうなりたいな。と想像出来るようになって安心している。私の時もあんな風にお願いね。」

お別れ会に参加された家族も、

「母の時もお願いします。」

と仰られました。

そして職員は、

「ここに暮らしていて今は元気な人もいつかは亡くなるんだ、という事を実感して、だからこそ、今、今日を楽しく不快なく生活して欲しいですね」

と言います。

言葉は違えど、看取りを経験する事でそれぞれでイメージが出来るようになって、今の生活に活かされたり、介護職として成長していく。そういう意味でも確かに看取りというのは、本当に大切な事であるし、看取りでも急変でも、介護の仕事とは人間の最期を支える素晴しい仕事だな、と実感する機会を身をもって教えてもらっています。